Archive for the ‘イエス・キリスト’ Category

モルモンは神会についてどう信じているんですか?

月曜日, 4 月 7th, 2008

神会を構成する御三方は一つの目的を持っておられますが、永遠の父なる神、御子であり私たちの贖い主イエス・キリスト、そして聖霊の3人の別個の方々です。このような神会に対する概念は、古代ならびに近代の啓示、そして1820年に天父と御子がジョセフ・スミスに姿を現されたというモルモンの信仰に基づいています。

カレン・マークリーさんからのお答え

3人の別個のお方
よくお尋ねくださいました。私自身、モルモン末日聖徒イエス・キリスト教会の会員)になる前、このことを知りたいと思っていました。アタナシウス信経(アタナシウス信条)を唱えるたびに、三人一体の神という考え方が納得できなくて頭を掻いていました。どうしても、理解できなかったんです。でも知りたかったんです。とうとう最後に神に尋ねてみようと心に決めました。ロンドンのホテルの部屋の真ん中で、すべてを中断して、ひざまずいて、どうぞ神会についての混乱を拭い去ってくださいとお祈りしました。祈っていると、すぐさま電気がついたような気がしました。御霊を通してメッセージを受けたんです。それはこうでした、「簡単なことさ、私はお前の父だ、イエスは私の息子、聖霊は私たち二人についての証言をするのだ。」 私は新しいメガネをかけがような気持ちで、立ち上がりました。神とイエス・キリストと聖霊は別々のお方であることを知ったのです。後で、こういう考え方のみならず、神とイエス・キリストと私との関係についての混じりけのない完全な真理が、末日聖徒イエス・キリスト教会で実際に教えられていることを知ったんです。

神は存在するのでしょうか?
あなたは一体神が存在するのかしらと思っているかもしれません。もしそうなら、私も一時はそうだったんです。神が生きておられるのかどうかわからない時期がありました。孤独で、自分の目的は何だろうと感じていました。自分が存在している目的や心に深く抱いている疑問の答えを得ることはないのだろうかと、絶望感を持った時があったんです。これらの答えが得られないまま、生きようとする意欲は薄らいでいきました。世間は冷たく、無意味に見えました。あなたも同じように感じているかもしれません。自分がなぜ地上に生きているのかを知らなければ、どうして毎日を生き続けることができるだろうかと思っていました。

謎を解く鍵を持っていなかった私は、ベッドの上に座って、睡眠薬のビンを見つめていました。その時、驚くことが起きたんです。愛深い天父が今だからそれが御霊だとわかるものによって、やさしく深遠な印象を心に授けてくださったんですね。「これまでの人生に愛と発見があったことは、無駄ではなかった、そして行き続ける勇気を持たなければならない」という心温まるささやきを受けました。また、人生の目的を見つけることができると、実際、霊が約束してくれたんですよ。私の魂のスクリーンに現れたこれらのことを完全には理解できませんでしたけど、でも、確信をもって私が受けた印象を受け入れることができました。

それからの数ヶ月間、私は自分の人生について深く考えていました。ある日、満月の美しい月の光の中、自宅付近をジョギングしていました。すると、真理の注入を受けたとでも言いましょうか、神が生きておられるという驚くべき、すばらしい証を得たんです。私は歩道の縁石に腰掛けて、喜びの涙にむせんだのを覚えています。その時私は一瞬にして変わりました。愛されていると感じ、今まで感じたこともなかった、人を愛したいという強い気持ちを感じました。ついに、私は人生の目的を持つことができたのです。それは言葉には表わすことができないほどすばらしいことでした。あなたも、自分で神が生きておられると知ることができますよ。

それから私は、神について、神が私のためにどんな計画を持っておられるのか、神や他の人たちに対して私はどんな責任や義務を持っているのかを、もっと知りたいと切望しました。この話の続きは、このビデオクリップ.をご覧ください。

関連する聖句
使徒17: 29: この聖句には、私たちは父なる神の子孫であると断言しています。
教義と聖約130: 3 主ご自身が神会のお三方が別々であることを証し、お三方が人の心の中に住まわれるという考えは誤りであると言われました。
ヨハネ14:23 御父と御子はその言葉を守った人々を愛し、その人のところへ行くと約束されています。
モーセ1:3-6, 39 神の目的は、私たちに幸福と永遠の命をもたらすことです。
マタイ3:13-17 イエスがバプテスマを受けられたとき、神会の一人一人のお方が別々に現れています。
ヨハネ14:6-10 御子イエス・キリストに従うことで、御父を知ることができます。お二人は別々のお方です。
使徒7:55-56 ステパノは聖霊に満たされて、イエスが神の右に立っておられるのを見ました。
2ニーファイ31:18 この聖句は聖霊の役割を明記し、その役割は御父と御子の役割とは異なっていることを区別しています。
教義と聖約76:20-24 ジョセフ・スミスは御父の右に御子を見たことを証言しています。

その他の資料
末日聖徒イエス・キリスト教会の公式サイト:www.mormon.org and www.lds.org.
“What Do Latter-day Saints Believe about the Godhead?” 末日聖徒に関するよくある質問ウェブサイト、BYU Studies
記事:
• 「神権に関する知識を喜びとする」
「リアホナ」、2005年2月号、25 または「Ensign(英文)」、2005年2月号、65 私たちは神会の本質について何を知っているのでしょうか?神会について知ることで、私たちはどのようにお三方に近づけるのでしょうか?
• 「御父と御子と聖霊」
ゴードン・B・ヒンクレー「リアホナ」、1998年3月号、2-9;または「Ensign(英文)」、1998年3月号、2-7) 御父と御子と聖霊の間には完全な一致があるために、このお三方は一つの神聖な神会として結ばれているのです
• 「Apostasy and Restoration(背教と回復)」
ダリン・H・オークス、「Ensign(英文)」、1995年5月号、84-87 ほかのキリスト教宗派と同じように、私たちは御父と御子、聖霊から成る神会を信じています。しかしながら、神会のこれらお三方は三人の別個のお方であることを証しします。
• 「Fruits of the Restored Gospel of Jesus Christ(イエス・キリストの回復された福音の実)」
ジョセフ・B・ワースリン、「Ensign(英文)」 1991年11月号、15-17 [福音の]顕著な原則の一つは、神会の特質に関する真の概念です。
• 「Touchstone of Truth(真実の目安)」
ジョン・H・バンデンバーグ、 「Ensign(英文)」、1974年5月号、11-13イエスは神なる御父、神なる御子、神なる聖霊の本性、すなわち形も本質も別個のお方であられるお三方について教えられたことは疑う余地はありません。

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モルモンは苦悩や悲しみをどのように考えているのですか?

木曜日, 4 月 3rd, 2008

青だけの信号なんてどこにもないし、パンがいつまでたっても焼きたてということもない。タイヤはパンクするし、請求書は山となるし、人は病気もすれば、どんなに若くても死んでしまうことさえある。人は暗中模索して苦しみにあがく。飢えに見舞われることさえある。戦争はいつまでたっても終わらない。

悲痛は人生につき物です。この死すべき世で人が成長するためにすべての物事には反対がのものがなければらなないという、モルモンの人生観は、預言者を通して主が明らかにされたことです(第二ニーファイ2:11)。けれども試練による悲しみは、イエス・キリストの贖いの力を通して取り去ることができます。モルモンは、救い主が死なれたのは、私たちの罪を代価を払う為だけでなく、ご自分の身に私たちの悲しみ、悲痛、弱さを引き受けて、希望と慰めをあたえてくださることを信じています。(アルマ書7:11-12)

子供のための教会の組織、プライマリーの前会長のパトリシア・ピネガー姉妹は、彼女自身が遭遇した悲痛と救い主のとりなしについて次のように語っています。:

「息子の死という苦しい経験は、イエス・キリストの福音を真実受け入れ、人が福音に従って生活するなら、平和と希望と導きという祝福を見出し、その祝福を味わうことができるということを知る助けとなりました。リチャード・G・スコット長老の言われた、“チャレンジと格闘し、悲痛を感じる時、それと同時に平和と喜びも持てるということを知ってください。(1995年10月大会報告、20、エンサイン1995年11月号、17)”という言葉が真実だということを証できます。」(「平安と希望と導きと」1999年11月号)

救い主ご自身は、苦難と悲痛を味わった方でしたが、主は彼の御父と調和していることを完全に理解しているという至福を知り、神と独特な関係にあることに慰めを見出しておられたに違いありません。私達も、私たちの愛する人が死んだ時や、他人の選択の結果生じたことが、悲劇的にも私たちの人生の計画を狂わせた時に、助けの手を差し伸べる人もなく放って置かれたのではないという平和と確信を見出すことができます。

モルモンの指導者の一人、ベートマン長老は、主だけが本当に与えてくださる特別な霊的慰めを主に求める時、癒しの乳香(安らぎ)が与えられることについて述べています。:

「死というものは、この世では完璧な幸福を経験することはできないのだということを教えてくれると同時に、永遠の幸福は主の助けによってのみ達成することができることを悟らせてくれます。」(教義と聖約93:33:34参照)新約聖書に書いてあるベテスダの池で38年も病気で悩んでいる人が、病から癒される為に自分よりも強い人が必要であったように(ヨハネ5:1-9)、私たちの霊が悩みや悲しみや罪から癒されることを望むならば、私達もキリストの贖罪の奇跡に頼るべきなのです。そうすればキリストを通して、破れた心が癒され、平安が不安や悲しみに取って代わるのです。」

死や病気だけが深い悲しみの原因ではありません。人生にはたくさんの重荷があるように、祝福もたくさんあるのです。現代の使徒、マービン・J・アシュトン長老は、日常直面する試練について次のように述べました。

「ある試練は、親や家族や学校の先生、ビショップやステーク会長会のメンバー、ボーイフレンドやガールフレンド、職場の友人やクラスメイトから信頼を裏切られることがあります。別の試練は、必ず目に見えるものではありませんが、大きな重荷が心痛の種になり、自分自身を受け入れることができなくて自尊心を失ってしまうことがあります。心の中で、自分の行動を自分自身で褒めるということが時々できますか?それとも何をやっても自分はだめだと思ってしまいますか?そんな気持ちを持つことは、負いきれない程重い試練です。こういう苦難は、永遠の成長を遅らせます。」(”Carry Your Cross,”リアホナ1988年9月号)

他の何よりも試練を経験することは、キリストが本当に誰であるのか、そしてわたし自身が本当は誰であるのかを教えてくれます。自分のことを知っているよりも、キリストは遥かに自分のことを知っておられ、キリストが一人一人を知っておられ、個人に何が必要かをご存知であるということを深く感じることができます。キリストが私たちが置かれている状況を先見して将来のために私たちを準備し、共に歩み、否定できないほどはっきりと心に銘記されたと感じるほどにまで、心のうちにかたりかけてくださることを経験し、他の何にも増して、主のお傍に永遠にいたいと思うようになれます。心の内に浸透してくる主の導きの源が何であろうと、私たちを苦難から引き上げる為に私たちが堪え忍ぶあらゆることの下に身を置かれた主に近づくことで慰めを見出すことは可能です。キリストの力は現実であり、私たちの葛藤を手に取るように知っていてくださり、キリストが私たちを救い出してくださる力に及ぶものは他にはないことを証します。もしあなたがキリストの力を必要とし、どのようにすればその力をあなたの生活に取り入れることができるかについて、もっと知りたいと思われるのでしたら、教会公式サイト、モルモン.org を訪れるか、教会の宣教師と話してみてください。

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「高価な真珠」という本はどんな本ですか?

月曜日, 3 月 24th, 2008

リチャード・ホルザップフェルさんからのお答え

末日聖徒は他のクリスチャンのように旧約・新約聖書を神のみ言葉である聖典だと信じています。聖書に加えて、イエス・キリスト教会は、「モルモン書」、「教義と聖約」、そして「高価な真珠」も教会の標準聖典、つまり正典として受け入れ、これらも神のみ言葉だと信じています。

「高価な真珠」という題名は、聖書に書かれているイエスさまのたとえ話(マタイ13:44-46参照)から取られているんですよ。ジョセフ・スミス(1805年-1844年)の死後に編纂されて、現在の版には幾つかの霊感に満ちたいろんな文書が入っています。「モーセ書」と「ジョセフ・スミス-マタイ」として知られているジョセフ・スミス翻訳の「創世記」と「マタイ」、「アブラハム書」として知られているジョセフ・スミスが古代エジプトのパピルス紙から翻訳した文書、さらにジョセフ・スミスが1838年に執筆した教会歴史、同じくジョセフ・スミスが1842年に執筆した末日聖徒の中心的信条を13条に成文化した「信仰箇条」などです。

「高価な真珠」は、苦難の存在、邪悪と死、人間の煩悩、そしてイエス・キリストによる救いといった人間が存在する限り誰もが持つ疑問について説いています。この他、この神聖な書物では、アダム、エバ、エノク、モーセアブラハムの生涯と教えも書かれているんです。それから「高価な真珠」には、ジョセフ・スミス個人の経験を簡潔に書いた「最初の示現」(1830年)、「天使モロナイの訪れ」(1823年)、「モルモン書の出現」(1827-1829年)、アロン神権の回復(1829年)といった歴史も載っています。最後に、父なる神とその御子イエス・キリストと聖霊の証とイエス・キリストの贖いの死の中心的役割といったモルモンの信条の中核を著した「信仰箇条」が掲載されています。こういった人類の初めから19世紀に及ぶ歴史の中での聖なる出来事を網羅しているんです。ですからまさしく「高価な真珠」という題名にふさわしい内容なんですよ。

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モルモンにとって恵みとはなんですか?

月曜日, 3 月 10th, 2008


ジェームズ・ファルコナーさんからのお答え
末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)の聖典の一つは、モルモン書と呼ばれていて、この聖典を使っていることから教会にこのニックネームがつけられたんですね。この聖典の中にはこう書かれています。:

さて、わたしの愛する同胞よ、神の御心と和解しなさい。悪魔の意志と肉の思いに自らを従わせてはならない。また、神と和解した後にあなたがたが救われるのは、ただ神の恵みによること、また神の恵みを通じてであることを覚えておきなさい。」(ニーファイ第二書10:24)

この聖句の著者は後で簡潔に「それは、わたしたちが最善を尽くした後、神の恵みによって救われることを知っているからである。」(ニーファイ第二書25:23)とも述べています。

他のキリスト教会のクリスチャンと同じように、モルモンも恵みがキリスト教のメッセージの中心だということを信じています。実際、モルモン書は、恵みの必要性を繰り返し教えていますし、新約聖書よりもこれを率直に教えています。(新約聖書はモルモンにとっても聖典ですから、教会員は熱心に読んで勉強していますよ。)

恵みは、イエス・キリストの無償の贈り物で、無条件に全ての人類に対して、アダムの堕落の影響から贖われることを保障しています。イエス・キリストが復活なさったおかげで、全人類も復活することができるんです。けれども、キリストの恵みによって自分自身が犯した個人的な罪から自由になろうとすれば、私たちは「打ち砕かれた心と悔いる霊」で犯した罪を悔い改めなければなりません。つまり私たちは神の御心と和解しなければいけないということです。モルモン書にはこう書いてあります。「打ち砕かれた心と悔いる霊を持つすべての人のために、罪に対する犠牲として御自身を捧げられる。このような人々のためにしか、律法の目的は達せられないのである。」(ニーファイ第二書2:7)このイエス・キリストの犠牲、つまり人類の為の贖いを受け入れるなら、それは全人類に与えられた恵みであり、キリストの贈り物だと思います。

では、その贈り物を受けるにはどうすればいいかということですね。悔い改めと神の御心に従うことで神と和解ができるというのは、モルモン書の中の聖句によると、こういうことなんです。

「また神は、すべての人に、イスラエルの聖者に対して完全な信仰を抱きながら、悔い改めて、神の御名によってバプテスマを受けなければならないと命じておられる。そうでなければ、人は神の王国に救われない。」(ニーファイ第二書9:23)

これと同じことが新約聖書にも書いてありまして、使徒ペテロがペンテコステの日に説教している時に立ち会っていた人たちに、こう言ってます。

「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」(使徒行伝2:38)

信仰を使って、キリストが贖いによって人類に提供してくださっている恵みを受け入れる意志を持たなければならない、それが即ち神と和解するということなんです。つまりキリストの戒めに従順であることと教会の儀式(聖餐)を通して、の意志をキリストのみ心と和解させなければならないのです。

ですから、他のクリスチャンと同様、モルモンも各自が「新しく生まれる」必要があることを信じています。けれども、新しく生まれるということは、キリストにあっての人生の始まりであって、キリスト者としての人生を完うしたこととは別です。それはちょうど生まれた時に人生が始まったけれど、それで人生が完成された訳ではないのと同じことです。詳しく言うと、イエス・キリストの贖罪を通して新しい人生を受けた人は、その新たな人生をこれからも歩んでいかないといけないということで、それは他でもなくその新しい人生でキリストがに期待しておられることを行うということなんです。聖書にはっきりとこう書かれています。

「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」(ローマ6:16)

もしキリストの贖いによって父なる神と和解するならば、は神の僕となる訳です。キリストがそうであったように、も御父に従い、神が命じられる人生を生き続けることです。

私たちはイエス・キリストとキリストの恵みに対する信仰なくしては救われませんし、信仰によってその恵みに入ったなら、それを持ち続けなければいけません。つまり最後まで堪え忍ばなければならないということです。新約聖書はこのように教えています。

「ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。」(ヤコブ書2:20)

言い換えると、行いでその信仰を表さないことは、信仰を持っていないのと同じだということです。またモルモン書でもこう説き勧めています。

「したがって、あなたがたはこれからもキリストを確固として信じ、完全な希望の輝きを持ち、神とすべての人を愛して力強く進まなければならない。そして、キリストの言葉をよく味わいながら力強く進み、最後まで堪え忍ぶならば、見よ、御父は、「あなたがたは永遠の命を受ける」と言われる。」(ニーファイ第二書31:20)

最後まで堪え忍ぶ人は、生まれ変わって出直した人生で、死後も堪え忍び、生前の働きの完全な実りを受けて、死後神と共に住みむのです。ですから神との和解は、の信仰が現在進行形で続いているように、永遠に続くのです。

使徒パウロは、聖書の中で御父との関係を養子縁組という見方で説明しています。

「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。」(ローマ8:17)

この聖句は聖霊を得る人は、神の家族に養子縁組されるという考えです。キリストと共に、これらの人は、神の息子や娘になる訳です。神との和解は神の僕として始まり、神を私たちの主と仰いで、神の命令されることを行います。けれども神との和解の終わりには神の子供になります。神の僕であっても、子供であっても、どちらも神に従いますが、僕というのは何がなんでも従わなければならない立場です。一方、子供というのは、親を敬愛しているから従うんですね。ですから逆に、不従順ということは言い換えると、イエスを主として受け入れないことで、御父を父親としては拒絶することです。だからこそ救いには、私たちの従順が要求されているのですが、それは私たちが従順ならキリストが恵んでくださったよりもっと多くを受ける価値のある者になるいうのではなく、私たちがそもそも何たる者であるかということを示しているのです。つまり、堪え忍び従順を示す神の子供として、私たちは当然の相続人だということです。恵みと行いは相対立するものでなく、むしろ恵みは行いを要求しているということなのです。

イエス・キリストの恵みがなければ、人類が永遠の祝福を得ることはできません。つまりイエス・キリストの恵みによって復活し、赦しを受け、救いを受けるのです。従順は、報酬をもたらす為の働きや義務ではありません。それは赦しを受けることであると同時に、救いの一部です。それはキリストを真似た生活をして、キリストの恵みの中に生き続けることであり、神の子供として御父に従う意志を表わす生き方をすることです。それが神と和解し続ける方法なのです。

参考となる読み物:
モルモン書 ニーファイ第二書9:6-13.
ブルース・C・ヘイフェン著(Bruce C. Hafen)モルモニズム百科事典(Encyclopedia of Mormonism)「恵み」(“Grace,”) 560-563ページ

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