Archive for the ‘信仰’ Category

モルモンはジョセフ・スミスを崇拝しているのですか?

木曜日, 5 月 1st, 2008

リチャード・ホルザップフェルさんからのお答え

末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は、モーセ、イザヤ、エレミヤ、ペテロ、ヤコブ、パウロといった聖書の預言者と使徒たちを尊敬しています。また末日聖徒は、現代においても主は預言者や使徒を召しておられると信じています。神が選ばれた現代最初の預言者はジョセフ・スミス(1805-1844)です。

さらにモルモンは預言者や使徒に加えて、他のすべてのクリスチャンが信じているように「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」(1テモテ2:5)と信じています。ですから末日聖徒は、真実、真心から永遠の父なる神を、その御子イエス・キリストのみ名を通して礼拝しています。ですから誰であっても、その人が何か特別なことをしたとしても人を拝むことはしません。

末日聖徒は、聖書の預言者や使徒のようにジョセフ・スミスが主のみ名によって語る為に神から召されたことを信じていても、どんな人でも罪や間違いを犯すようにジョセフ・スミスも完全ではない人間であったことを認めています。彼が主から得た啓示の中で、主はジョセフに何度も悔い改めなさいと戒めていらっしゃいます。けれど神はすべての男女誰にでもイエス・キリストの贖いの血によって赦すことを約束していらっしゃるように、ジョセフにも、同じ約束をしていらっしゃいます。ジョセフ・スミス自身このように言いました。「救い主は、私たちの益になるもの中で何事にも匹敵することのない永遠の命の言葉を持っておられる。」(ジョセフ・スミスの教え“Teachings of the Prophet Joseph Smith” [Salt Lake City: Deseret Book, 1976]、364)

ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒たちは、それぞれ古代の預言者を個人の伝統の中で敬う精神を持っています。けれどもモーセやパウロのことは知っていて彼らについては他の使徒や預言者の生涯よりも学んでいるように思われます。これと同じように、末日聖徒も、ジョセフ・スミスの生涯や教えについては他の多くの預言者や使徒よりもさらに知っているように思えます。ジョセフ・スミスが聖徒たちの間で特別に考えられているのは、モルモンはキリストが「王の王」そして「主の主」(黙示録19:16)として治めるために勝利を以って再臨される世界の歴史上、宗教的な意味での最終の章を開く目的でジョセフがイエス・キリストから聖任され、神から召されていることを信じているからです。モーセのようにこのユニークな役割は、主の訪れを受けたということ、主の民を約束の地へ向かっての大いなる動きを導くこと、主を礼拝する為に聖なる神殿(神聖な場所)を確立すること、そして聖なる聖典としていまや明らかにされた主のみ言葉を保存することが含まれます。

ジョセフ・スミスは、現代における主の証人で、次のように証しました。「そして今、子羊(主)についてなされてきた多くの証の後、わたしたちが最後に子羊についてなす証はこれである。すなわち、「子羊は生きておられる。」わたしたちはまことに神の右に子羊を見たからである。また、わたしたちは証する声を聞いた。すなわち、「彼は御父の独り子である」」(教義と聖約76:22-23)

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モルモンは苦悩や悲しみをどのように考えているのですか?

木曜日, 4 月 3rd, 2008

青だけの信号なんてどこにもないし、パンがいつまでたっても焼きたてということもない。タイヤはパンクするし、請求書は山となるし、人は病気もすれば、どんなに若くても死んでしまうことさえある。人は暗中模索して苦しみにあがく。飢えに見舞われることさえある。戦争はいつまでたっても終わらない。

悲痛は人生につき物です。この死すべき世で人が成長するためにすべての物事には反対がのものがなければらなないという、モルモンの人生観は、預言者を通して主が明らかにされたことです(第二ニーファイ2:11)。けれども試練による悲しみは、イエス・キリストの贖いの力を通して取り去ることができます。モルモンは、救い主が死なれたのは、私たちの罪を代価を払う為だけでなく、ご自分の身に私たちの悲しみ、悲痛、弱さを引き受けて、希望と慰めをあたえてくださることを信じています。(アルマ書7:11-12)

子供のための教会の組織、プライマリーの前会長のパトリシア・ピネガー姉妹は、彼女自身が遭遇した悲痛と救い主のとりなしについて次のように語っています。:

「息子の死という苦しい経験は、イエス・キリストの福音を真実受け入れ、人が福音に従って生活するなら、平和と希望と導きという祝福を見出し、その祝福を味わうことができるということを知る助けとなりました。リチャード・G・スコット長老の言われた、“チャレンジと格闘し、悲痛を感じる時、それと同時に平和と喜びも持てるということを知ってください。(1995年10月大会報告、20、エンサイン1995年11月号、17)”という言葉が真実だということを証できます。」(「平安と希望と導きと」1999年11月号)

救い主ご自身は、苦難と悲痛を味わった方でしたが、主は彼の御父と調和していることを完全に理解しているという至福を知り、神と独特な関係にあることに慰めを見出しておられたに違いありません。私達も、私たちの愛する人が死んだ時や、他人の選択の結果生じたことが、悲劇的にも私たちの人生の計画を狂わせた時に、助けの手を差し伸べる人もなく放って置かれたのではないという平和と確信を見出すことができます。

モルモンの指導者の一人、ベートマン長老は、主だけが本当に与えてくださる特別な霊的慰めを主に求める時、癒しの乳香(安らぎ)が与えられることについて述べています。:

「死というものは、この世では完璧な幸福を経験することはできないのだということを教えてくれると同時に、永遠の幸福は主の助けによってのみ達成することができることを悟らせてくれます。」(教義と聖約93:33:34参照)新約聖書に書いてあるベテスダの池で38年も病気で悩んでいる人が、病から癒される為に自分よりも強い人が必要であったように(ヨハネ5:1-9)、私たちの霊が悩みや悲しみや罪から癒されることを望むならば、私達もキリストの贖罪の奇跡に頼るべきなのです。そうすればキリストを通して、破れた心が癒され、平安が不安や悲しみに取って代わるのです。」

死や病気だけが深い悲しみの原因ではありません。人生にはたくさんの重荷があるように、祝福もたくさんあるのです。現代の使徒、マービン・J・アシュトン長老は、日常直面する試練について次のように述べました。

「ある試練は、親や家族や学校の先生、ビショップやステーク会長会のメンバー、ボーイフレンドやガールフレンド、職場の友人やクラスメイトから信頼を裏切られることがあります。別の試練は、必ず目に見えるものではありませんが、大きな重荷が心痛の種になり、自分自身を受け入れることができなくて自尊心を失ってしまうことがあります。心の中で、自分の行動を自分自身で褒めるということが時々できますか?それとも何をやっても自分はだめだと思ってしまいますか?そんな気持ちを持つことは、負いきれない程重い試練です。こういう苦難は、永遠の成長を遅らせます。」(”Carry Your Cross,”リアホナ1988年9月号)

他の何よりも試練を経験することは、キリストが本当に誰であるのか、そしてわたし自身が本当は誰であるのかを教えてくれます。自分のことを知っているよりも、キリストは遥かに自分のことを知っておられ、キリストが一人一人を知っておられ、個人に何が必要かをご存知であるということを深く感じることができます。キリストが私たちが置かれている状況を先見して将来のために私たちを準備し、共に歩み、否定できないほどはっきりと心に銘記されたと感じるほどにまで、心のうちにかたりかけてくださることを経験し、他の何にも増して、主のお傍に永遠にいたいと思うようになれます。心の内に浸透してくる主の導きの源が何であろうと、私たちを苦難から引き上げる為に私たちが堪え忍ぶあらゆることの下に身を置かれた主に近づくことで慰めを見出すことは可能です。キリストの力は現実であり、私たちの葛藤を手に取るように知っていてくださり、キリストが私たちを救い出してくださる力に及ぶものは他にはないことを証します。もしあなたがキリストの力を必要とし、どのようにすればその力をあなたの生活に取り入れることができるかについて、もっと知りたいと思われるのでしたら、教会公式サイト、モルモン.org を訪れるか、教会の宣教師と話してみてください。

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モルモンは聖書を信じていますか?

金曜日, 3 月 28th, 2008

リチャード・ホルザップフェルさんからのお答え

英語圏のユダヤ人と同じように、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)の会員は、ヘブル語聖書(つまり旧約聖書のこと[注1])を神のみ言葉として受け入れていますよ。他のクリスチャンと同じように、もちろん新約聖書も神のみ言葉として受け入れてます。(日本では日本聖書協会が聖書を出版してますから、モルモン教会では日本聖書協会の出版している口語訳を教会では使ってますが、個人で勉強する時は、自分の好きな聖書協会の他の訳を使ってる人もいますね。もちろんモルモンは、旧約も新約も聖書を神のみ言葉として信じているんです(末日聖徒の「聖典」を参照。「信仰箇条」第八条を参照>]。)

ですけど、クリスチャンが旧約聖書を神のみ言葉が書かれた最後の記録だとは考えてないからこそ、時代がずっと後に書かれた新約聖書も旧約聖書に引き続いて「神との新しい聖約」という意味で旧約も新約の二つともを聖書として受け入れていますね。これと同じように、末日聖徒も新旧約聖書を神のみ言葉として受け入れ、同じ理由で神のみ言葉が書かれた最後の記録だとは考えてないんですよ。モルモンは、注意深く、祈りをもって聖書を読んで勉強して、そこから神様の教えの霊感を学び取るようにしています。だから、聖書は、教会の日曜学校のカリキュラムの常設コースの一部として重要な位置を占めているんです。それに、教会運営の大学では宗教必須科目として取り入れられてます。だからほとんどの末日聖徒は、人生で何回も聖書の学習コースを経験して、知識や証を養って、まじめに勉強すれば聖書は随分ボロボロになるぐらいですよ。

末日聖徒でも聖書研究においての有名大学の大学院レベルでの学位を取る人が随分増えてきてるんですよ。そういう研究者たちは、聖書文学協会(the Society of Biblical Literature)といった国際協会にも加入しています。ほとんどこういう人たちは学者の立場から聖書を読むんですけど、それでも聖書を学ぶ門弟であることには変わりはないですね。そういう人たちも平会員と一緒に、末日聖徒やその他のいわば「本の中の本」である聖書を大切に思っている人たちの為に、この聖書に関しての言語学的、文化的、歴史的或いは文学的観点から注釈書とか研究書を出版しています。

だけど、勉強する上で教会が主に焦点は、イエス・キリストを通しての聖約と贖いを核とするテーマに中心を置いていることす。彼らの個人的、あるいは教会での聖典学習では、教会員は、聖書をどのように生活の中に応用するかって言うことで、例えば結婚生活とか、親としての責任とか、全能の神と自分の関係を築いて維持することとかですね。人生で何かに苦しんでる時とか、人生穏やかじゃない時とか、死に直面した時、末日聖徒は聖書のみ言葉から安らぎを見出します。それから最後に、モルモンは聖書をただ信じてるだけじゃなくて、その教えを通して生活しようとがんばって、聖書を読んでもっと神様と神様の目的について知ろうと努力しているんです。

[注1]旧約聖書は元は、ヘブル語で書かれていたんです。(ダニエル書はヘブル語に関連の深く、ヘブル語と同じアルファベットを使ってるアラム語でバビロンとかパレスチナに住んでいるユダヤ人が採用した言語で書かれていました。)そしてユダヤ人が地中海東部の盆地へ拡散して来た時期、それに伴ってギリシャ語で旧約聖書を作る必要も増加してきました。そこで「70人訳」として有名なギリシャ語訳の旧約聖書が紀元前3世紀から1世紀あたりに出来上がったわけです。一方、新約聖書はギリシャ語で書かれていましたから、「70人訳」のギリシャ語旧約聖書を新約聖書が引用するのは自然の成り行きだったんです。ラテン語が学問のついた人の間の主要言語になったのは紀元4世紀の半ばで、聖ジェロム(St.Jerome)が西方教会で使うためにラテン語に翻訳しました。

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