Archive for the ‘恵み’ Category

モルモンは苦悩や悲しみをどのように考えているのですか?

木曜日, 4 月 3rd, 2008

青だけの信号なんてどこにもないし、パンがいつまでたっても焼きたてということもない。タイヤはパンクするし、請求書は山となるし、人は病気もすれば、どんなに若くても死んでしまうことさえある。人は暗中模索して苦しみにあがく。飢えに見舞われることさえある。戦争はいつまでたっても終わらない。

悲痛は人生につき物です。この死すべき世で人が成長するためにすべての物事には反対がのものがなければらなないという、モルモンの人生観は、預言者を通して主が明らかにされたことです(第二ニーファイ2:11)。けれども試練による悲しみは、イエス・キリストの贖いの力を通して取り去ることができます。モルモンは、救い主が死なれたのは、私たちの罪を代価を払う為だけでなく、ご自分の身に私たちの悲しみ、悲痛、弱さを引き受けて、希望と慰めをあたえてくださることを信じています。(アルマ書7:11-12)

子供のための教会の組織、プライマリーの前会長のパトリシア・ピネガー姉妹は、彼女自身が遭遇した悲痛と救い主のとりなしについて次のように語っています。:

「息子の死という苦しい経験は、イエス・キリストの福音を真実受け入れ、人が福音に従って生活するなら、平和と希望と導きという祝福を見出し、その祝福を味わうことができるということを知る助けとなりました。リチャード・G・スコット長老の言われた、“チャレンジと格闘し、悲痛を感じる時、それと同時に平和と喜びも持てるということを知ってください。(1995年10月大会報告、20、エンサイン1995年11月号、17)”という言葉が真実だということを証できます。」(「平安と希望と導きと」1999年11月号)

救い主ご自身は、苦難と悲痛を味わった方でしたが、主は彼の御父と調和していることを完全に理解しているという至福を知り、神と独特な関係にあることに慰めを見出しておられたに違いありません。私達も、私たちの愛する人が死んだ時や、他人の選択の結果生じたことが、悲劇的にも私たちの人生の計画を狂わせた時に、助けの手を差し伸べる人もなく放って置かれたのではないという平和と確信を見出すことができます。

モルモンの指導者の一人、ベートマン長老は、主だけが本当に与えてくださる特別な霊的慰めを主に求める時、癒しの乳香(安らぎ)が与えられることについて述べています。:

「死というものは、この世では完璧な幸福を経験することはできないのだということを教えてくれると同時に、永遠の幸福は主の助けによってのみ達成することができることを悟らせてくれます。」(教義と聖約93:33:34参照)新約聖書に書いてあるベテスダの池で38年も病気で悩んでいる人が、病から癒される為に自分よりも強い人が必要であったように(ヨハネ5:1-9)、私たちの霊が悩みや悲しみや罪から癒されることを望むならば、私達もキリストの贖罪の奇跡に頼るべきなのです。そうすればキリストを通して、破れた心が癒され、平安が不安や悲しみに取って代わるのです。」

死や病気だけが深い悲しみの原因ではありません。人生にはたくさんの重荷があるように、祝福もたくさんあるのです。現代の使徒、マービン・J・アシュトン長老は、日常直面する試練について次のように述べました。

「ある試練は、親や家族や学校の先生、ビショップやステーク会長会のメンバー、ボーイフレンドやガールフレンド、職場の友人やクラスメイトから信頼を裏切られることがあります。別の試練は、必ず目に見えるものではありませんが、大きな重荷が心痛の種になり、自分自身を受け入れることができなくて自尊心を失ってしまうことがあります。心の中で、自分の行動を自分自身で褒めるということが時々できますか?それとも何をやっても自分はだめだと思ってしまいますか?そんな気持ちを持つことは、負いきれない程重い試練です。こういう苦難は、永遠の成長を遅らせます。」(”Carry Your Cross,”リアホナ1988年9月号)

他の何よりも試練を経験することは、キリストが本当に誰であるのか、そしてわたし自身が本当は誰であるのかを教えてくれます。自分のことを知っているよりも、キリストは遥かに自分のことを知っておられ、キリストが一人一人を知っておられ、個人に何が必要かをご存知であるということを深く感じることができます。キリストが私たちが置かれている状況を先見して将来のために私たちを準備し、共に歩み、否定できないほどはっきりと心に銘記されたと感じるほどにまで、心のうちにかたりかけてくださることを経験し、他の何にも増して、主のお傍に永遠にいたいと思うようになれます。心の内に浸透してくる主の導きの源が何であろうと、私たちを苦難から引き上げる為に私たちが堪え忍ぶあらゆることの下に身を置かれた主に近づくことで慰めを見出すことは可能です。キリストの力は現実であり、私たちの葛藤を手に取るように知っていてくださり、キリストが私たちを救い出してくださる力に及ぶものは他にはないことを証します。もしあなたがキリストの力を必要とし、どのようにすればその力をあなたの生活に取り入れることができるかについて、もっと知りたいと思われるのでしたら、教会公式サイト、モルモン.org を訪れるか、教会の宣教師と話してみてください。

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モルモンにとって恵みとはなんですか?

月曜日, 3 月 10th, 2008


ジェームズ・ファルコナーさんからのお答え
末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)の聖典の一つは、モルモン書と呼ばれていて、この聖典を使っていることから教会にこのニックネームがつけられたんですね。この聖典の中にはこう書かれています。:

さて、わたしの愛する同胞よ、神の御心と和解しなさい。悪魔の意志と肉の思いに自らを従わせてはならない。また、神と和解した後にあなたがたが救われるのは、ただ神の恵みによること、また神の恵みを通じてであることを覚えておきなさい。」(ニーファイ第二書10:24)

この聖句の著者は後で簡潔に「それは、わたしたちが最善を尽くした後、神の恵みによって救われることを知っているからである。」(ニーファイ第二書25:23)とも述べています。

他のキリスト教会のクリスチャンと同じように、モルモンも恵みがキリスト教のメッセージの中心だということを信じています。実際、モルモン書は、恵みの必要性を繰り返し教えていますし、新約聖書よりもこれを率直に教えています。(新約聖書はモルモンにとっても聖典ですから、教会員は熱心に読んで勉強していますよ。)

恵みは、イエス・キリストの無償の贈り物で、無条件に全ての人類に対して、アダムの堕落の影響から贖われることを保障しています。イエス・キリストが復活なさったおかげで、全人類も復活することができるんです。けれども、キリストの恵みによって自分自身が犯した個人的な罪から自由になろうとすれば、私たちは「打ち砕かれた心と悔いる霊」で犯した罪を悔い改めなければなりません。つまり私たちは神の御心と和解しなければいけないということです。モルモン書にはこう書いてあります。「打ち砕かれた心と悔いる霊を持つすべての人のために、罪に対する犠牲として御自身を捧げられる。このような人々のためにしか、律法の目的は達せられないのである。」(ニーファイ第二書2:7)このイエス・キリストの犠牲、つまり人類の為の贖いを受け入れるなら、それは全人類に与えられた恵みであり、キリストの贈り物だと思います。

では、その贈り物を受けるにはどうすればいいかということですね。悔い改めと神の御心に従うことで神と和解ができるというのは、モルモン書の中の聖句によると、こういうことなんです。

「また神は、すべての人に、イスラエルの聖者に対して完全な信仰を抱きながら、悔い改めて、神の御名によってバプテスマを受けなければならないと命じておられる。そうでなければ、人は神の王国に救われない。」(ニーファイ第二書9:23)

これと同じことが新約聖書にも書いてありまして、使徒ペテロがペンテコステの日に説教している時に立ち会っていた人たちに、こう言ってます。

「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」(使徒行伝2:38)

信仰を使って、キリストが贖いによって人類に提供してくださっている恵みを受け入れる意志を持たなければならない、それが即ち神と和解するということなんです。つまりキリストの戒めに従順であることと教会の儀式(聖餐)を通して、の意志をキリストのみ心と和解させなければならないのです。

ですから、他のクリスチャンと同様、モルモンも各自が「新しく生まれる」必要があることを信じています。けれども、新しく生まれるということは、キリストにあっての人生の始まりであって、キリスト者としての人生を完うしたこととは別です。それはちょうど生まれた時に人生が始まったけれど、それで人生が完成された訳ではないのと同じことです。詳しく言うと、イエス・キリストの贖罪を通して新しい人生を受けた人は、その新たな人生をこれからも歩んでいかないといけないということで、それは他でもなくその新しい人生でキリストがに期待しておられることを行うということなんです。聖書にはっきりとこう書かれています。

「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」(ローマ6:16)

もしキリストの贖いによって父なる神と和解するならば、は神の僕となる訳です。キリストがそうであったように、も御父に従い、神が命じられる人生を生き続けることです。

私たちはイエス・キリストとキリストの恵みに対する信仰なくしては救われませんし、信仰によってその恵みに入ったなら、それを持ち続けなければいけません。つまり最後まで堪え忍ばなければならないということです。新約聖書はこのように教えています。

「ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。」(ヤコブ書2:20)

言い換えると、行いでその信仰を表さないことは、信仰を持っていないのと同じだということです。またモルモン書でもこう説き勧めています。

「したがって、あなたがたはこれからもキリストを確固として信じ、完全な希望の輝きを持ち、神とすべての人を愛して力強く進まなければならない。そして、キリストの言葉をよく味わいながら力強く進み、最後まで堪え忍ぶならば、見よ、御父は、「あなたがたは永遠の命を受ける」と言われる。」(ニーファイ第二書31:20)

最後まで堪え忍ぶ人は、生まれ変わって出直した人生で、死後も堪え忍び、生前の働きの完全な実りを受けて、死後神と共に住みむのです。ですから神との和解は、の信仰が現在進行形で続いているように、永遠に続くのです。

使徒パウロは、聖書の中で御父との関係を養子縁組という見方で説明しています。

「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。」(ローマ8:17)

この聖句は聖霊を得る人は、神の家族に養子縁組されるという考えです。キリストと共に、これらの人は、神の息子や娘になる訳です。神との和解は神の僕として始まり、神を私たちの主と仰いで、神の命令されることを行います。けれども神との和解の終わりには神の子供になります。神の僕であっても、子供であっても、どちらも神に従いますが、僕というのは何がなんでも従わなければならない立場です。一方、子供というのは、親を敬愛しているから従うんですね。ですから逆に、不従順ということは言い換えると、イエスを主として受け入れないことで、御父を父親としては拒絶することです。だからこそ救いには、私たちの従順が要求されているのですが、それは私たちが従順ならキリストが恵んでくださったよりもっと多くを受ける価値のある者になるいうのではなく、私たちがそもそも何たる者であるかということを示しているのです。つまり、堪え忍び従順を示す神の子供として、私たちは当然の相続人だということです。恵みと行いは相対立するものでなく、むしろ恵みは行いを要求しているということなのです。

イエス・キリストの恵みがなければ、人類が永遠の祝福を得ることはできません。つまりイエス・キリストの恵みによって復活し、赦しを受け、救いを受けるのです。従順は、報酬をもたらす為の働きや義務ではありません。それは赦しを受けることであると同時に、救いの一部です。それはキリストを真似た生活をして、キリストの恵みの中に生き続けることであり、神の子供として御父に従う意志を表わす生き方をすることです。それが神と和解し続ける方法なのです。

参考となる読み物:
モルモン書 ニーファイ第二書9:6-13.
ブルース・C・ヘイフェン著(Bruce C. Hafen)モルモニズム百科事典(Encyclopedia of Mormonism)「恵み」(“Grace,”) 560-563ページ

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