ひざまずいて祈る夫婦
祈りは重荷ではありません。祈りは安堵、慰めをもたらします。知的で自分の魂をはっきりさせる経験です。祈りは慰めを与える盾です。いつでも、どこでも祈ることができます。そのときに頭や心の中でしか静かに祈ることができなくても、それでも祈ったことになります。

この世界の中では祈ることが少なくなってきています。以前、友人の家に行ったとき、その家族は食事の前に家族の祈りをしていませんでした。国によっては、学校で祈ることは法律に反し、不審な目で見られることもあります。このように社会の中で祈りがなくなる傾向がある理由の中には、祈ったことがない、祈りたくても、祈りの始め方を知らないということもあるかもしれません。

祈りの価値

わたしはクリスチャンの家庭で育ち、家だけでなく毎週日曜日に通っている教会でもイエス・キリストの福音を学んできました。わたしは祈り、教会に出席し、聖典を読むべきだと知っていました。しかし年齢を重ねていくうちに、わたしは祈りについてあることを発見しました。

祈りは重荷ではないということです。それは「しなければならないことのリスト」の中の一つで、やり終わったらチェックマークをつけるというようなものではありません。わたしが真剣に祈るとき、わたしは世界中で最も信頼している人の側にいて、牧草地に横たわっているような気がします。神様はわたしのことをすべてご存知で、いつでも積極的に耳を傾ける準備ができていらっしゃいます。わたしのためにすべての愛と関心を向けてくださいます。

祈りの方法

あなたが初めて祈る場合、もしくは祈る習慣をやめているのでしたら、わたしがお勧めするのは「ただ始める」ことです。とにかく始めて下さい。短くても大丈夫です。次のように祈るといいでしょう。

  • 頭を下げて、目を閉じて、腕や手を組むなど、敬虔さを示すようにします。
  • 「天のお父様」と呼びかけます。声に出してもいいですし、心の中で呼びかけてもいいです。
  • わたしたちの命、健康、家族、食べ物、わたしたちを幸せにするもの、イエス・キリスト、それからほかのわたしたちが祝福されていると思うことに対して、天の父に感謝します。
  • 願っていること、助けが必要な事柄について神の導きと力を求めます。
  • 助けを必要とする人のために祈ります。
  • 終わりに「イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」と言います。

祈るときは敬意に満ちた敬虔な言葉使いをします。「言語に関係なく、原則は同じです。祈るときの言葉は、愛と礼拝の気持ちを神に対していだいていることを適切に伝えるように選びます。」(教会HP「祈り」の項より引用)しかし、できるだけ親密に話すように祈ることも心がけます。いつも同じことを繰り返す祈りにならないように気を付けなければなりません。祈りは、神様と話す方法だからです。祈り終わったあとも瞑想し、祈りに対する答えを受けられるように祈った事柄を心に留めるようにします。

最も大事なことは、完全に祈らなければならないと心配する必要はないということです。主が示された形式で祈ることにより、神様に対して本当に真剣に気持ちを伝えているかどうか、そして、自身が抱える痛み、悲しみ、混乱、幸せ、喜び、傷ついていることなどを素直に伝えることがもっと大切です。

祈りに対する答え

多くの場合、祈りの答えはわたしが期待しているような形では与えられません。わたしの人生で学んだ一つのことは、天の父はわたしよりずっと賢い方で、たくさんのことをご存知であるということです。神の導きに従う、つまり神の計画を信じ受け入れることでわたしたちは天の父のもとへ帰る道をまっすぐ歩むことができます。わたしが信仰を持って神の導きに従うことを選ぶときに、自分で考えて行うよりもはるかに美しく物事が運びます。

教会のウェブサイトでは、祈りの答えを受けることについて次のように説明されています。

救い主はこう教えられました。「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。すべて求める者は得,捜す者は見いだし,門をたたく者はあけてもらえるからである。」(マタイ7:7-8)ニーファイ人に対して主はこう言われました。「与えられると信じて,わたしの名によって父に求めるものは,正当であれば,見よ,何でもあなたがたに与えられる。」(3ニーファイ18:20)

神の答えはいつもわたしたちの期待するようなものではないかもしれませんが、神は答えられます。御自分の時に、御自分の意志に沿って答えられます。神はわたしたちにとって最も良いことをご存知なので、時には否定的な答えを与えらます。

常に祈る

祈りで好きなことは、いつでも祈れることです。わたしはいつでも祈っています。おそらく数えられないほど小さな沈黙の、あるいは声に出す祈りを、朝から晩までしています。わたしは自分が敬虔であることを吹聴したり、いつも祈っていることを自慢するつもりはありませんが、常に祈ることによってもたらされる祝福として、より謙遜になれると伝えたいと思います。

あらゆる時代の、全世界の、そしてあらゆる生き物の神である天の父が、祈りをつぶやいた瞬間に聞いてくださるということは驚くべきことです。神様は決して「今は聞くことができません」とは言いません。ちっぽけな老人であるわたしのくだらない小さな要望にも、耳を傾けてくださるのです。これが神のわたしたちに対する愛だと信じています。常に祈るということは、戒めなのです。神はわたしたちにいつも祈るように命じておられるのです。

わたしは慰めを求めて祈ります。自分の弱点を変えられるように祈ります。残念なことに、いつもつまずくので、絶えず赦しを求めて祈らなければなりません。小さな奇跡を求めて一日中とも思われるほどに祈っています。そして、神はわたしの祈りに答えてくださいます。

教会のウェブサイトでは祈りについて次のように述べられています。

わたしたちは皆神の子です。天の御父はわたしたちを愛し,わたしたちが必要としていることを御存じです。また祈りを通してわたしたちが御自身と交わるのを望んでおられます。ほかのだれにでもなく御父に祈ってください。イエスは次のように命じられました。「あなたがたは,わたしの名によって常に父に祈らなければならない。」(3ニーファイ 18:19)祈りによって神に近づくことを習慣とするときに,神を知るようになり,さらに神に近づくことができます。以前にも増して自分の望みが神の望みに似たものとなります。信仰をもって求めさえすればいつでも神が与えようと準備しておられる祝福を,自分自身やほかの人々のために手に入れることができます。(教会HP「祈り」の項より引用)

わたしたちの天の父はいつでもわたしたちの祈りを聞き、答える準備ができていらっしゃいます。祈りが生活の一部になるように努力するとき、次の勧告を覚えておくといいでしょう。

祈りを有意義なものとしてください。祈りを有意義なものとするには,真心から,また「熱意を込めて」祈らなければなりません(モロナイ7:48)。祈るときに,「くどくどと祈る」ことのないように気をつけなければなりません(マタイ6:7参照参照)。(教会HP「祈り」の項より引用)

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